近代教育はここから始まった?明治時代の『学制』について

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現在の日本社会で暮らす私たちの周りには、歴史を作り上げてきた先人たちの努力の結果があります。今でこそ当たり前になっている義務教育制度ですが、元を辿ると、明治時代にまで遡ることに。近代教育制度を日本が目指すうえでの、大きなきっかけとなったといわれる『学制』。今回は、この『学制』公布後、日本の近代教育の基盤がどのように成立したのかをまとめました。日々、教育の現場に立つ先生方も、この機会に日本の近代教育のルーツについて振り返ってみてください。

目次

近代国家の人材を育てる第一歩、『学制』の公布

『学制』は、学校を全国に均等に設置し、子どもたちが自分の住んでいる地域の近くの学校に通えることを目的として、明治5年に公布されました。
江戸時代までの儒教思想に基づく教育とは違い、学制は欧米の近代思想に基づいたもの。個人主義、実学主義の教育観を重視し、近代社会で力を持つ欧米諸国と渡り合うための、日本の未来を背負う人材育成を目指しました。

『四民平等』の立場から、全国民が対象となっており、全国を大学区に区分し、さらに中学区、小学区に分け、これを地方教育行政の単位区画としました。さらに各府県において学区が定められ、小学校、中学校、大学校が設立されていきます。

政府はまず、小学校の設立と、それに伴う教師の養成に注力しました。東京に直轄の師範学校を創立し、そこで教育養成の他に小学教則の編集や新しい教科書の編集なども行い、後に小学校教育の近代化に貢献します。

明治政府が『学制』を公布した理由とは?

そもそもなぜ学制を交付し、学校を作る必要があったのでしょう?
江戸時代までにも、日本の教育機関は、武士の子どもたちが対象の藩校、庶民の子どもたちが対象の寺子屋、さらに蘭学、兵学など多様な学問を教える私塾などがあり、この時代の識字率は世界最高基準だったとも言われています。

とはいえ、学問の必要性を民衆は理解していなかったため、子どもたちは幼い頃から家の手伝いなどをして働いていました。そこで、明治政府は「人が立身出世し、悔いのない生涯を送るためには学問を修めることが重要だ」とし、学校の必要性を説いたのです。

学校で教える学問は実学が中心。それまで欧米諸国に比べて教養が少なく、政治への関心が薄かった国民に対し、日本人である自覚と国力をつけるための政策の一環として、政府は学校を利用したとも言われています。

『学制』交付後の日本の教育への影響

当時の農民にとって子どもは大事な働き手であり、子どもを学校に行かせるということは、貴重な働き手を失うことと同じでした。さらに、学制による学校の設立維持にかかる費用は、民費として、民衆から徴収することを原則としていたため、この二重苦に民衆の不満が爆発。学校焼きなどの一揆も行われたほどでした。

明治10年を過ぎると、政府が欧米中心の実学主義の教育方針を唱えていたのに対し、それ以前の日本の良さを唱える「復古主義」の思想が現れはじめます。そこで、儒学者たちの復職、復権を求める動きと重なり、教育の内容も儒学中心のものへと転換しつつありました。そんな中、明治12年には『教育令』が出され、町村が学校運営の中心を担います。さらに明治13年には『改正教育令』が出て、国が学校を運営することで、大きく軌道修正が行われました。

国としての近代化への重要な役割を担っていた教育の整備

日本が近代化を達成するために政府が目指した教育は、「国民としてのまとまりをつくること」でした。まず、国民が同じ言語を話すことでそれを達成しようと、国語教育が重視されます。さらに、学校教育と宗教は切り離すことを前提としました。国が宗教に対して口を挟むと、国民のまとまりがなくなる恐れがあると政府は考えたからです。

その後、明治33年には義務教育の授業料廃止が決定し、着々と教育の制度が整っていった結果、明治35年には国民の就学率が92%にもなりました。こうして、義務教育制、無償制、そして宗教からの中立性の3条件が成立し、近代教育制度が完成したのです。

武士が中心であった江戸時代から、明治維新を受け、『学制』の公布によって誕生した学校。しかし『学制』が公布されたからといって、すぐに形になったわけではなく、こうして数々の困難を乗り越え、現在当たり前のように日本に浸透している近代教育が完成したのです。実は、この近代公教育制度は欧米では成立するまでに100年もの月日を要したといいます。それと比較すると、規律を重んじる日本人の国民性も伺えます。

今回ご紹介した内容を参考に、日本の教育の成り立ちについて生徒たちに話してみると、普段の学びにより興味をもってくれるかもしれません。