今だからこそ学びたい、日本の発展を支えた教育機関「寺子屋」とは

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江戸時代の日本人の識字率は60%以上と言われています。これは同時代の世界各国と比べても、その割合はかなり高く、当時の先進国であった欧米の人々も日本人の教養の高さに驚いたと言います。これを支えたのが、江戸時代の庶民の学校として各地に点在していた「寺子屋」でした。現代の日本の社会の礎とも言える、人々の能力を底上げすることに貢献してきた寺子屋は、いったいどのような仕組みだったのでしょうか。その特徴をまとめました。

目次

江戸の日本の知力を底上げした、寺小屋ができた理由

寺小屋は、お寺における師弟関係から始まったことから、「寺子屋」と名付けられたとされています。
この寺子屋が国内で広まったのは、江戸時代中期頃のこと。武士や官職以外の、一般庶民の子供たちが、将来の仕事や生活に不自由しないために、全国に普及したとされています。
当時の日本は、子どもは代々続く家業を継ぐことが当たり前でした。商人の家では、お金の計算ができなくてはならないし、農民の家でも、文書を作成したり、手紙のやりとりをしたりするためには、やはり寺子屋に通わせる必要があったのです。

そのため、寺小屋で学ぶ内容は「読み・書き・そろばん」などの基本的な内容が中心で、知識のある僧や医者、神官、武士などが自宅の一室を教室にし、先生として教育に当たっていました。生徒の年齢はだいたい7〜13歳。朝7時〜午後14時くらいまでの間に授業が行われていました。
また、一つの寺子屋の生徒数は約20〜30人が基本だったので、形式としては現在の小学校のような役割だったことが分かります。19世紀に入ってからその数は急増し、江戸幕末期には、全国に15,000以上もの寺子屋があったとも言われています。

先生はボランティア!?「民間発」で広まった寺子屋。

当時の教育機関は、他にも幕府の役人の子どもが通う昌平坂学問所(昌平黌)、諸藩に設立された藩士の子どもが通う藩学(藩校)、武士・学者・町人によって設立された私塾などがありました。私塾と寺子屋はともに民間から始まった教育機関です。寺小屋においては、その先生たちは、ほぼボランティアで本業の傍ら教鞭をとっていたと言います。私塾では儒学や国学・洋学などの講義が行われ、寺子屋よりもより高度な知識を学ぶ場所でした。寺子屋で一通りの基本を学んだ生徒が、次に私塾に進学する流れもあったようです。

現代の小学校等とは異なる寺子屋の教育の特徴とは?

現在のような学校教育が普及したのは、明治時代以降のこと。寺子屋は、当時の各家庭の仕事を子どもが手伝いながら通う場所だったので、必ず毎日通わなければならないという決まりはありませんでした。また、生徒の年齢もバラバラなので、先生が大勢の前で一度に授業を行うスタイルではなく、それぞれの子どもの年齢や習熟度などに合わせて、「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる教科書が用意されました。この教え方の形式は、今で言う個別指導のようなものでした。

また、基本的な知識や技術を学ぶ傍ら、人としての道徳的な振る舞いについても教えられ、欧米人も驚くような日本の民度の高さを根底で支えていました。女性の多い都市圏の江戸・京都・大阪などでは、花嫁修行のためにお裁縫やお茶、お花などの教育もされていたそうです。

時代と環境にあった教育方法を考えてみよう

しかし、明治時代になって、寺小屋に代わり小学校での教育が主流となった理由には、江戸時代までの身分制度を排除し、平等に能力を評価して、実力のある人材が身分に限らず出世できる環境の重要性が見直されたことにありました。それは、長い鎖国の間に差がついてしまった欧米と対等に渡り合うためには、身分を超えて優れた人材の発掘が日本に必要だったからです。

とはいえ、寺子屋のように一人ひとりの特性に合った教育は、現代の個別指導塾にも通ずるところも少なからずありそうです。学校に塾に、現代の子どもたちは様々な教育環境に恵まれています。先生方は自身の教育機関の役割を再認識し、生徒にとってよりよい学びの場を提供することを大切にしたいですね。